秋田市広面にある浄土宗本念寺の公式ホームページです。
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本念寺は元和2年(1616)良無文廓上人が開基されました。
しかし本念寺には縁起(建立理由)が残されておりません。
ですが歴代の住職のお戒名から察せられることがあります。
本念寺第12世存雅上人に中興号がついております。中興号というのは、普通は二代目の住職、もしくは本堂または庫裡等の新改築を行った住職に送られるものであります。つまり12世存雅上の時代(1700年前後)に本念寺に何か大きな物事があったということになります。
それは最初に野崎辺りにあったのを現住所に移転したと伝えられている時期と重なります。
本念寺は元々野崎というところにあり、12世存雅上の時代に現在の広面赤沼へ移転が行われました。
移転の理由につきましては、藩主が嫌った説と野崎は水がつき建物を腐らせるという2つの説が伝えられております。
移転の際には元の柱等をそのまま使用しながら当時の様式で新築したものと思われます。
本堂につきまして、出入りの大工さんからは本念寺の丸柱は江戸時代には既に使われていない槍がんなで削られているのため「室町時代の建物なのではないか」「柱の下には切り傷があり腐食した柱の下の部分を切ったのではないか」というご意見をい聞いています。
昭和48年の豪雪の時倒壊した本堂の昔の玄関は佐竹公の別荘の物を頂いたとも聞いております。
また、秋田市市史編纂室の方より、現在の本堂は1700年初期の様式で建てられており、この本念寺の本堂は秋田市の神社仏閣の中で一番古いものというお話を伺っております。
本念寺の年表
一六〇〇年初期
・本蓮社良無文廓上人大和尚によって開かれる。
享保年間
・十二世眞蓮社良實存雅上人の時現在の地に移転する。
慶応元年 (186?)
・名山堂新築
昭和十一年(1936)
・位牌場新設
昭和十三年 四月十五日より二十一日(1938)
・五重相伝
昭和五十七年度 五月十八日(1982)
・本念寺第二十六世本葬
平成十四年度(2002)
・本念寺駐車場取得
平成二十七年度(2015)
・山門修復土台工事
・観音菩薩・勢至菩薩修復
平成二十八年度(2016)
・山門修復工事
・善導大師・法然上人像修復
・表階段修復
・表階段手摺り設置
・墓地杉下枝払い
平成三十年度十月(2018)
・五重相伝
平成三十年度十月(2020)
・御忌大会 唱導師 第二七世住職 須田道孝

見どころ

本念寺には名山源太佐衛門という力士のお墓があります。
平成4年3月6日の産経新聞(秋田版)にて掲載されました名山源太佐衛門についての記事『碑と人に』(文・三樹北夫=郷土研究家)をご紹介いたします。
「仏名山伝説」
実は江戸時代元禄にかけての一時期にもう一人、磯碇の四股名持つ秋田出身の力士がいた。正保元年(1644)久保田の生まれと言うから、前回紹介した雄勝出身の関脇磯碇よりは50年ほど早い。後に名山源太佐衛門と改め、秋田藩主佐竹候お抱えの中でも大力無双とうたわれた。
ところで享保生まれの磯碇については、平左衛門、平太左右衛門の二横の名前が記録されているが、先般磯碇の源太左右衛門と照らし、代々の磯碇、あるいは朝日山系の力士は「・・太左右衛門」と名乗るのが通例でもあったのだろうか。名山は藩主に従って江戸へ上がり、紀州候お抱えの横綱某と手合わせをすることになった。
いずれ余興的な取り組みである。当時は相手が横綱である場合は勝ちを譲るのが力士間の不文律だった(信頼性は疑わしいが郷土史にはそう記す)ようだ。

知って知らずか佐竹候は名山の勝利に強くこだわった。主命とあればやむを得ない。名山は「鷲返し」という奇技を用いて横綱を土俵に這わせた。
それ以降、名山は異端者として多くの力士やタニマチ衆の怨みを買うことになる。身辺を案じた佐竹候は護衛をつけて秋田へ送り返したが、名山としては一日として気の休まることのないくらしだった。ましては再び土俵へ上がろうなどとは夢にも考えられない。
意を決して出家、浄土宗の修行山本念寺に入った。名を霊心と改め、道心堅として勤行に励んだといわれる。
同寺は17世紀初めの開基、もと手形野崎にあったが、後三吉神社近くの赤沼に移されている。町奉行にして俳諸宗匠小夜庵吉川五明の流れを組む虫二房の6世会田素山や飯塚交〇、また明治以降の人では女傑、木内トモなどが同寺墓地に眠っている。山門を入った横手にある観音堂は、300年以上の伝統ある正月16日未明の行事、札打ち が行われる秋田33番霊場の3番でもある。
参道左側に2間四方の祠があり、そこには安座姿の石像一体が納まっている。霊心こと名山源太左右衛門が船頭に自分の姿を記憶させたうえ、雄勝郡関口村(現湯沢市)石工の名工に彫らせたものといわれ、雄物川を舟下した後、土崎の荷揚場からは自らが背負って本念寺まで運んだという。頭痛・耳鳴りなどに効能あらたかと今日も根強い信仰を集めている。
のち阿仁銀山へ行き専念寺に住した。同寺には名山時代に藩主から拝領した鐙(あぶみ)と佐竹の家紋の入った挟み箱の瓦皮などが長く保存されていたとのことだが、寺焼失の際一緒に失われている。
晩年はさらに阿仁川をさかのぼった荒瀬に専念寺の末寺として庵を結び、ここで余生を送った。藩主はこれに「名山源太庵」の名を送っている。享保12年(1727年)2月25日83歳で死去。
源太庵は霊心没後も6、7代住職がいたけれど明治13年に焼失して以降は廃寺に。庵後を土地の人は「寺ツコ」と呼ぶ。観音堂の後ろに「光誉霊心比丘」と刻んだ墓碑がある。裏に生前霊心が好んだという山椒などを供えて拝めば、丈夫な子供が生まれるという口碑もある。」